夢というエネルギー資源

20代半ばともなると、10代の間に思い描いたことの一部が達成しだしてくる。

たとえば私の場合、
中学生の頃デザイナーになりたいと思ったことが、22歳には一応叶っている。
(実は、高校生の頃にWebデザイナーにはらない!とも思っているのだが。それはさておき。)

一応というのは、デザイナーというのは単に職につくことではなく、会得出来てからはじめて名乗っていいものだと思っているので、スタートラインに立っただけ、というのが近い。


ただ100%達成とまではいかなくとも、大なり小なり人は夢を叶えて生きている。

ところが最近、「あれ10代の頃の夢叶ってきちゃってるけど、今後どうしたらいいの?」という不安を覚えるようになった。


最低限食べるに困らない社会

すごく幸福なことに、食べるに困ったことが無い。
ひきこもってた中学時代も、親に養われて生きてきた。
(部屋の前にメモと共にご飯・・・ということはなく、ちゃんと一緒に食べてましたよw)

中学生なのだし当然と言えば当然かもしれないけれど、すごく恵まれていると思った。

けれども、食べる為に何かをしなくては!という本能的欲求がすでに満たされているこの社会において、人は何を求めるのか?

そう考えたときに、現代を生きる私たちは、夢という資源を渇望し、それを原動力にしているのでは、と思う。


夢というエネルギー資源

大なり小なりと書いたけれど、描く夢の大きさによって持続可能なエネルギーが異なる。
「あれ10代の頃の夢叶ってきちゃってるけど、今後どうしたらいいの?」という先の不安は、夢という燃料がつきてきたのだ、と私はイメージする。

「デザイナーになりたい!」と思った14歳の夢は、約10年間のエネルギーだったのだろう。


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これが仮に「世界一のデザイナーになる!」という夢だったらどうだろうか?
チープな言い回しであることはさておき、単純にデザイナーという職業につきたいという夢よりもエネルギーが大きいように思う。

けれども資源を扱うにはそれに伴う器が必要だ。
たとえば「宇宙飛行士になる!」という夢のエネルギー資源は誰でもが扱える訳ではない。
それと同じように世界一のデザイナーになる!と思っても、まだデザイナーというものをきちんと理解出来ていない中学生の私には扱えなかっただろう。(でもそれを扱える中学生もいる。それが才能の差だ)
そうやって人は、自分自身の器を見極めながら、夢を自分のものへとしていく。


お金を手に入れたい、車を運転したい、大人っぽい服が着こなせるようになりたい、どんな小さな夢でも人は求め、それをエネルギーに生きている。
夢というエネルギーが切れ始めた24歳頃から私はそうしたちょっとした夢をエネルギーに生きてきたような気がする。満たしても満たされない夢は、燃費が悪い証拠ではないだろうか?


そろそろ大きな夢をまた持たなければ、それが今の私を不安にさせる理由なのだと思う。
小さな夢で日々をまわすことだけに慣れた日常から脱出しなければ。
大きな夢、それ自体は誰でも手に出来る。あとはそれをエネルギーへと変えられる自分へ変化していくだけ。
夢エネルギーとそれを扱う自分自身のバランスが大切なのではないだろうか。


私がすごいな、と思う人は夢が途切れることなく、小さな夢で満足することなく、常に大きなエネルギーを扱っているような気がする。