灰色ハイジのテキスト

サンフランシスコで働くデザイナーの日記とか考え事とか

アメリカで出産した

去年の11月に出産をした。初めての、それもアメリカでの出産は、記憶に残る体験なので、記録に残しておきたいと思いながら、半年が経ってしまった。

出産経験のある友人から、予定日より早く産まれたと言う話を聞き、予定日ギリギリで計画していた子供用品の準備を、余裕を持って計画を立てないといけないんだなぁと思っていたところ、なんと本当に予定日より1ヶ月も早く産むことになってしまった。

34週目に普通に検診を受けていたら

検診で赤ちゃんのサイズが少し小さいと言われた。お世話になっている病院はKaiserで、検診を受けている施設では、簡易的にしか調べることができないので、サンフランシスコ市内にある別の病棟で、後日詳細なエコーを診てもらうことになった。家に帰ってからインターネットで調べると、日本人の赤ちゃんの中では平均の範囲内だったので、きっとアメリカの基準としては小さいってことなんだろうと思い、あまり心配していなかった。

翌日、病院からエコーの予約の電話がかかってきた。当日が空いていたので、急遽病院へ行くことになった。GearyにあるKaiserだったのだけれど、ジャパンタウンが近かったので、お昼をHinodeya Ramenで食べたり、紀伊國屋でデザインの本を買ったりして、のんびりとした気持ちで向かった。

病院に着いてエコーで見てもらうと、サイズがやはり少し小さいとのことだった。ただし、白人のお母さんから産まれる子がベースとなっているので、ただ単に小さい子なのか、胎盤に異常があるのかは観察が必要があるらしく、追加のテストを受けることになった。

エコーの後は、NST(ノンストレステスト)が行われた。赤ちゃんの心拍数の変化を診るためのものらしい。事前知識で、こういうテストがあるのは知っていたので、定期検診の一環でやっているのだろうなと思った。しばらくすると、カーテンを隔てた向こう側に別の妊婦さんが現れた。あれ?と思ったのは、後からきたその妊婦さんが先に帰っていったとき。私の方はと言うと、先生がおかしいなぁといった感じで検査結果を見たり、他のスタッフの人と話している。

先生から、さらに向かいにある別の病棟へ行って、追加の検査を受けるように指示された。私の血圧が高かったこと、そして期待していた子の心音のパターンが見られなかったことが理由だった。

突然の入院部屋へ

別の病棟へと行くと、警備員の人に見舞いかどうかを尋ねられたので、患者本人だと伝える。案内された階はなんだか重々しい空気で、いつもの病院の雰囲気とは違った。あとで知ったのは、そこはLabor and Delivery(分娩室)のある場所だった。これから赤ちゃんを産むという人たちがやってくる場所に、とても軽装の私が行くものだから、受付の人も疑問の様子だった。

通された部屋には出産したお母さん向けのボードがあり、どうやら出産した人が入院する個室のようだった。このとき夕方6時頃。お昼にふらっとエコーのために出かけてきたと思ったら、入院用の部屋に通されたので、だんだん緊張感と不安を覚えた。

通された入院用の部屋

ナースと先生がやってくると、その場で血液検査がなされた。赤ちゃんの様子もずっとモニターされ、血圧も定期的に測り続けている。説明によると、妊娠高血圧症の疑いがあるため検査しているらしい。結果次第では、今晩入院だと言われる。普通に家に帰るつもりだったため、夫に気にせず夕食を食べるように連絡をいれる。

隣の部屋からは赤ん坊の声がする。本当に入院用の部屋なんだと思うと、緊張した。出産予定日まであと1ヶ月もある。

しばらくすると、ナースがやってきて「夕食どうする?」と聞かれた。「いま余っているのはチキンティッカマサラなんだけど」と言われたので、それをお願いする。どうやら入院している人向けの食事が余っていたらしい。出産時の入院食は気になっていたので、思いがけず出産前に知れてよかった、などと思いながら食べる。結構美味しかった。

病院食

食べながら、どんどん時間が過ぎていく。時間はもう夜の9時ごろになっていた。いつ帰れるのか全く分からない状況が数時間続いた。ようやく先生が来て言われたのは、"preeclampsia with severe features" という症状であること。Kaiserでは無料で電話やビデオ通話での通訳がつけられるのだけれど、日本語で「しかんぜんしょう」と言われて、漢字も全然ピンと来なかった。検索してみると、「子癇前症」。高血圧が特徴で、このままだと母体・胎児共に危なくなるかもしれないとのことだった。陣痛促進剤を入れて出産を促しましょう、多分この数日で生まれます、という説明を受けた。「出産する」という言葉を聞いてとても動揺した。出産は突然やってくるとはいえ、1ヶ月も先のことだと思っていたので、全然心の準備ができていなかった。

夫に電話をし、このまま入院になるので、持ってきて欲しいものを伝える。一番初めに書いたように、友人から予定日より早く産まれることもある、という助言から少し準備を進めてあった、子供の退院時の服やポーチをリクエストする。

その後、分娩のための部屋に移動をした。

分娩室への移動

分娩部屋

さっきの入院室より機材が多く、緊張が高まる。日本にいる両親からは事前に、アメリカには99%行けないと思う、と言われていた。コロナの状況的に難しかったことや、英語が話せないどころか、新潟からほとんど1人で出たことのない母親は絶対に無理ということだった。初めての出産は不安だったので、ベイエリアの日本人の出産ドゥーラさん(住井直子さん)にお願いをしていた。ドゥーラとは、お産に立ち会って女性のサポートをする人のことで、陣痛中にリラックスするのを手助けしてくれたりする。出産前から、出産の知識や、入院の心構えや、赤ちゃんのお世話の仕方などを教えていただいていたのだけれど、夫からそのドゥーラさんにも連絡を入れてもらう。

数日で生まれるかも、という話だったので、夫とドゥーラさんは翌朝の病院到着を目指していた。先生やナースに何度も「旦那さんは来るの?いつ頃来るの?」と聞かれるので、再度確認のつもりで「促進剤はいつ入れますか?そこから数日ほどで産まれると聞いたのですが」と聞くと、「今から入れて出産します」と言われたので、慌てて夫に「今すぐ来て欲しい。産まれるかもしれない」と伝える。今でもこの連絡はとても大事だったと思っていて、というのも子供はそのまま朝に産まれたからだ。夫が翌朝に病院に来ていたら出産に間に合っていなかった。

慌てて夫とドゥーラさんがそれぞれ駆けつけてくれた。時間は夜10時過ぎになっていた。 促進剤を入れてから、どれくらいの時間が経ってからかは全然覚えていないけれど、徐々に痛くなってきて、ドゥーラさんが足のマッサージをしてくれたり、ジュースを飲ませてくれたりした。出産に向けて好きな曲のプレイリストを作ろうと思っていたのに…と残念に思いながら、Spotifyで好きな曲を流して気を紛らわせた。

また、夫が私が勤めている会社に連絡をしてくれた。予定日の1ヶ月前ほど前から産休を取る予定だったので、仕事の引き継ぎなどはあらかた終えていたけれど、少し早めに休みに入らなければいけなくなった。私のスマホを渡し、Slackで連絡するべきチャンネルを指定すると、夫が投稿して同僚に伝えてくれた。

無痛分娩のタイミングが分からない

アメリカでは無痛分娩が主流となっている。無痛分娩は、エピドラル注射を腰の脊髄の近くに打つのだけれど、これがいつ入れたら良いのか分からない。こちらから希望したタイミングで入れる、つまり先生の判断でいつ入れるという訳ではないことは、事前知識でなんとなく知っていた。無痛分娩をするとご飯が食べられなくなったり、動けなくなると聞いていたので、出産が長丁場になるのであれば、ギリギリまで我慢した方が良いのかなと思っていた。それでも陣痛がどんどん痛くなってきたので、いつエピドラルを入れたらいいと思いますか?とナースに聞くと、「そんなの痛かったらすぐにでしょ」という感じの返答で、すぐさま注射を打つことになった。

正直、無痛分娩後の記憶があまりない。無痛の注射を入れてしばらくした後、内診があり、子宮口があまり開いていないと言われる。(内診は正直陣痛よりも痛いんじゃないかと言うくらい痛かった… 一番陣痛が強いタイミングで無痛分娩の麻酔が効いていたのかもしれないけれど)

予想外の帝王切開

その後、先生から状況の説明があり「帝王切開を勧めます」という言葉と共に、帝王切開をするならば同意書にサインをするように言われた。帝王切開をするかどうかの判断を自分がしないといけないの!?今からお腹を切り裂くなんて心の準備ができない、と軽くパニックになりながらも、麻酔で意識で朦朧としていて判断ができず、ただただ心臓がバクバクしていた。なかなか踏ん切りがつかず、「先生は帝王切開を勧めるんですね」と再確認すると、「あなたと子供のためにはその方が良い」という言葉が返ってきたので、子供のために覚悟を決めて、帝王切開をすることになった。

無痛分娩から帝王切開までの時間が記憶にないのだけれど、そこまで時間は経っていなかったように思う。最終的に帝王切開になるのであれば、無痛分娩の麻酔を打つ時の痛みは必要なかったのでは…と思うものの、それは無事に出産できたからこそ抱ける感想なんだろう。

帝王切開は手術室で行われる。担架に乗せられて移動している間も心臓はバクバクしていた。手術室でも電話を介して通訳がつけられるのだけれど、私はずっと「夫はいつ来ますか」と尋ねていた。1人の心細さと、夫が出産に立ち会えないのではと不安だった。麻酔を打たれてしばらくすると気分が悪くなってきて、意識が飛んだり、吐いたりしていた。

帝王切開のときの様子を夫が写真に納めていた。

どれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、オギャーという声が聞こえてきた。手術の様子が見えないようにシートで覆われていたため、赤ちゃんの姿は見えないけれど、声を聞いて「産まれた」と思った。声が出てくれてよかったという安堵と共に、この向こうにずっとお腹にいた子がいるのかと思うとドキドキした。こうして、検診へと向かった日の翌朝に娘は産まれてきた。

手術後の写真を夫が撮ってくれていたが全然記憶にない

手術直後の記憶がないのだけれど、気づいたら病院の個室だったように思う。娘は体重が1750gと低体重のため、産まれた後にNICUに入院することになった。その為、産んでから実際にお目にかかれたのは、その日の夜だった。帝王切開後で歩くのも大変で、ナースに車椅子を押してもらいながらNICUに向かうと、保育器に入った小さな赤ちゃんがいた。

保育器に入った娘と初対面したとき

この出産から6ヶ月ほど経ち、小さく産まれてきたことが嘘のように、娘は元気に成長している。産まれてきてくれてありがとう。

夫サイド

夫も、出産について書き残していた。夫の視点で出産の様子が綴られている。