灰色ハイジのテキスト

サンフランシスコで働くデザイナーの日記とか考え事とか

Facebookでの窮屈さは不登校時代を思い出す

Facebookは基本的に直接顔見知りの人としか繋がらないことにしている。
のだけれど、最近それでもソーシャル疲れだなぁと感じる。それだから、こそ?

私が田舎で過ごしたから特にだと思うのだけれど、“まったく趣味思考の違う人間が、地域が近いという理由でセグメントされる”という義務教育における学校の仕組みに、中学不登校になった当時疑問に感じていた。

Facebookでの窮屈さはそれに似ている。

一度挨拶したとか、所属が一緒とか、地域が近いとか。そんなことじゃ人の距離は測れない。
学校生活においても、話す人と話さない人がいるように、結局Facebookだってよく会話をする人、投稿を見る人は限られている。

やはりFacebookはまさに名簿だなぁ、というところでは関心する他ないのだけれど。


少し話は変わって、数ヶ月前にGoogle+のコミュニティに自分の好きなゲームのコミュニティを立ててみた。
と言っても、アイコンといくつかのスレッド立て&最初の1postをしたのみで、特に何もしていない。
でも、たまにぽつり、ぽつり、と投稿がある。

あ、ネットにはじめて触れた時の面白さって、そうそう、こんな感じ。
顔もどこに住んでるかも分からないけど、すごく近い感じがして、何もしてないのに繋がってる感じがして嬉しい。


そうだFacebook。あれは本当に教室のようだ。
みんななんとなく読んで欲しい人を思い浮かべながら投稿している感じがして、なんか声は聞こえるんだけど、それ誰に言ってるんだろ?あ、ここで反応したら、お前に対してじゃないよ。みたいな、そんな感じがする。
おいそれと、いいねを押せない。

この気をつかう感じ。
誰が何にいいね!を押したか流れてくるけど、これもなんか教室で大声で「この漫画買ったんだけどー」って手を振り上げながら喋ってるような感じがして恥ずかしい。
あ、あいつあれ好きなんだ。みたいな。




でも一番嫌なのは自分がそういう風に見て欲しくて投稿をしてしまう時なんだけど。